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私は1999年4月から2002年4月まで佐賀県庁国際課国際交流員を勤めた崔宰源(チェジェウォン)です。今ふりかえてみると99年の3月に合格通知をいただいて以来、ただ甘い夢に膨らんでいた当時の私と今の私を比べてみるといろんなことが起こり、また変わったなと改めて実感します。
大学を卒業したばかりで社会人の卵だった私が、国際交流員の3年間の生活を通して、

如何にたくさんのことを経験し、如何に多くのことを学んだか!おそらくその積み重ねによって一人の人間としても少しながらも成長したのではないかと思います。
これらのすべては佐賀県の皆さんの他、同期の皆と韓国と日本のJET関係者の皆さんのお陰だと思います。この場を借りて厚く感謝申し上げたい次第です。

私が佐賀県庁で経験した主な仕事は「日韓海峽沿岸県市道知事交流会議」関連です。99年度当時、知事交流会議の幹事県であり、開催県であった佐賀県は、4月にある「事前準備会議」の大詰めの業務作業で一番忙しい時期を向かえていました。登庁初日から翻訳業務を任され、途方に暮れた私は、パソコンが当時WINDOWS95だったし、インターネットにも接続できない状況で、ハングル入力も旧式コリアンライターだったので仕事環境は果たしてよくはなかったです。その時、知事会議の仕事で四苦八苦したのを未だに覚えていますが、当時韓国側の幹事道であった濟州道職員との電話での業務連絡です。全体的業務の流れをまだしっかり把握できなかった私は、日本側4県の意見を代表で伝えることは非常にプレッシャーでした。しかし知事会議を通して私は、両国間の業務スタイルの相違点を掴み、またそれぞれの業務上の長所や短所を把握できました。量的に多かった通訳・翻訳業務のような仕事は一見雑用な仕事として思われがちですが、自分から出す一文字一文字、一言一言が如何に大事な部分を占めているのかを失敗をしながらその都度その都度わかるようになりました。またその分仕事に対する責任感も持てるようになったのではないでしょうか。

「日韓海峽沿岸県市道知事交流会議」は今年で11回目を向かえますが、知事会議の傘下には様々な共同交流事業があります。その中でもっとも記憶に残るのは「青少年交流事業」です。特に去年は、日本の教科書問題が発端となり、日韓両国関係が迷宮に陷りました。ちょうど夏休みの時期で、ワールドカップ開催を1年前に控えていたその時、新聞を見るとあちらこちらで我々のような青少年交流事業を予定していたそうです。

しかし事態は泥沼状態にまで悪化に転じ、事態を重く感じた韓国側からは交流事業を一時中止すると通達が届きました。事業の立ち上げ以来一度も中止をしたことのなかった青少年交流事業は闇の中に包まれました。佐賀県では青少年交流事業開催のため、それまでたくさんの時間と努力を費やし地道な準備作業を進めていたので、何らかの形でも開催を強く要望していました。結局韓国側からも未来を担う青少年たちが正しい歴史観と世界観を持つためには交流事業は続くべきだとの返事が返ってきて、日本側の要望は受け入れられました。これは約10年間続く交流事業の厚い信頼感があってこそ実現できたことでしょう。こうやって交流事業は無事成功裏に終了することができました。

今まで両国は、観念の中でイメージを作り、そのイメージばかり想像し、互いに対する誤解や偏見を産み出してきました。しかしこのような人と人の交流の積み重ねによって、誤解や偏見は徐々に溶けていき、更に顔と顔を向き合って話し合うことによって、韓国人と日本人は自然に心が通い会う仲間になれるなとこの青少年交流事業を通して痛感しました。
文書を書き出したら記憶に残る出来事が次々と頭の中を走り回ります。新千年の到来で熱狂していた2000年の1月、当時の国際課長から一つ提案を受けました。県庁職員を対象にお昼の時間を利用してハングル講座をやってみないかと。その頃私も県庁2年目でとてもやる気に満ちあふれていましたし、県庁職員を対象にぜひハングル講座をやってみたいと思っていたので、担当者と相談し、毎日のお昼の30分を利用してハングル講座をスタートさせました。
当時、佐賀県庁には、私が把握している限り、韓国語ができる職員は国際課職員数名に、趣味で勉強している職員が数名程度いました。しかし職員にとって昼休みはとても外せない大事な憩いの時間なのでわざわざ時間を割いてハングル講座に参加してくれる人は少ないだろうと、軽い気持ちで初日を向かえましたが、予想を大きく上回り、なんと初級が約50名、中級が10名、上級が10名という仰天するほどの人数が集まる一大事件が起りました。佐賀県庁職員の韓国語学習熱がこれほど熱いものであったのかと驚きの様子を隠せなかったです。約3ヶ月間続いたハングル講座は、業務上の理由で途中脱落する人数名を除いてほとんどの参加者が最後まで授業に参加してくれました。この時の成果が芽生えたのか、以後庁庁舎で講座に参加した職員とすれ違う時には簡單な韓国語で挨拶を交すようになりました。また韓国に対する関心と、理解もその分増えて行きました。

また、もう一つ強烈に記憶に残る事があります。それは「学校訪問」です。近頃日本では、総合学習の一環として国際理解授業を行う学校が急激に増えました。国際理解授業に国際交流員はいつも歓迎されますが、私も仕事の合間を縫って講師として出向くことが度々ありました。子供たちに見せるために、韓国に関する話題や写真などを持参し、教室に入るといつもわっと驚くことがあります。どの学校にも共通することですが、クラス全員が、私を歓迎する意味で手作りの太極旗を飾ったり、崔さんへのメッセージボードや民族衣裝の絵、韓国について調べたものなどを壁際にぎっしり張り出したりして大いに歓迎してくれます。またどこで教えてもらったのか、長い挨拶文を韓国語で読んでくれたり、または、アリランなどの民謠の演奏を交えて歌ってくれたりなどなど、いつも子供たちの優しい心がぎっしり詰まった教室へ入ることができます。教室ではものすごい質問攻撃を受け、お手上げ状態になる場合もあります。一人の子から「今日は私たちのためにわざわざ韓国から来てくれてありがとうございます。」と書いた感想文を渡され、にっこり笑う場面もありました。みんなが私のことを実のお兄さんのように向かえてくれたこと、町で偶然会った時に無邪気な笑顔で挨拶をしてくれたこと、県庁に遊びに来てくれた熱狂ファン等など、今でも忘れられない記憶の映像がたくさんあります。このような国際理解授業での成果はそれぞれの学校で充分に生かされ、ここで得た知識や経験を軸に国際交流祭りを開催する学校もありました。

学校訪問で私がいつも感じたとは、韓国と日本のそれぞれの教育現場で、相手の国に対する指導法の温度差です。韓国では、日本から受けた過去の侵略行為や植民地時代の、いわゆる負の遺産が日本に対する教育内容の大半を占めている現状から、どうしても日本というと暗い部分だけが強調されがちで、子供たちの日本に対する一般的なイメージは教育によって大きく左右される部分があります。自分から体驗したり調べることによって得た日本の知識ではなく学校から一方的に教え込まれる一部の知識だけで全ての日本を語ろうとする傾向があります。そのようなことは子供たちが成長するにつれ、歪んだ反日感情や偏見を持たせてしまう一つの原因にもなります。しかし、日本の教育現場では、相手の国、つまり韓国を尊重する基本的立場を変えず、実際に韓国人に触れ、いろんな視点から韓国を見ようとする努力を行っています。もちろん過去の歴史に関してもただ単に逃げ込むのではなく、ちゃんと見据えた上で、教科書の知識だけでなく生徒自らが調査・研究をするように指導し、過去も現在もちゃんと受け止め、片寄りのない教育の実現へ向けて頑張っていました。よく我々は「日本人は過去について無知だ」と言いますが、私は次のように思います。我 が心を開いて日本を抱きしめ、歩み寄る姿勢をとるべきではないかと。決して日本に從順することではありません。交流が頻繁になり、互いの心が通じ会い、その中で、韓国に興味を持ってくれる人が増え、韓国が好きになった人は自然に韓国のことがもっと知りたくなるだろうですし、歴史もどんどん知りたくなるでしょうから。決して強要してはいけないと思います。かつて我々は「過去の歴史に謝らないと交流はありえない」との強硬な姿勢をとった時期がありました。しかしこれからは我々が心を開き、日本を抱きしめ、学校現場でも、過去の歴史ももちろんのこと、それと同時に日本の良いところ、素晴らしいところも含めて、もっと明るい部分も交えながら教えたらどうでしょうか?日本に対する総合的教育を実現させ、正しい日本観と平和思想を子供たちに教えるべきです。それで、子供自らが自分の知識や判断によって日本を直視できるような力を持たせるべきです。

最後になりますが、私は現在、福岡に残り、これまで3年間培ってきた経験をバックに地方自治体の国際交流について勉強に全うしています。地方分権時代に歩調を合わせ、今後日韓・韓日の地域住民のより一層の交流促進が図られることを強く願っています。それが実現できると国際交流員の役割や仕事は更に増えることでしょう。

これからの日韓・韓日関係がますます友好的な関係に発展して行くとの信念を持ちながら私も努力を重ねて行きたいと思います。


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